久しぶりの台湾旅行をして
- bigeva0
- Jan 2
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Updated: Jan 3
― 黒水と、語られなかった歴史 ―
まえがき
久しぶりに台湾に行った。
私は台湾人の両親を持つ、日本生まれのアメリカ人だ。
神戸で生まれ、小学3年生まで中華同文学校に通っていた(中国語)。その頃、教科書の内容が共産寄りになるという話を聞いた祖父が、日本の学校への転校を勧めたと聞いている。
家では台湾語を学ばなかった。親たちは台湾語で会話していたので、何を話しているかは少し分かるが、私は話せない。(中国語の学校に行ってはいたが、両親は台湾語と日本語しか話せない。)なぜ教えられなかったのか。日本社会に溶け込むためだったのか。それとも、語らない方が安全な時代だったのか。今になって、その理由を考えるようになった。
最初に台湾に行ったのは3歳の時だった。年子に近い男の子を3人連れて、母は里帰りをしたらしい。プロペラ機だったのか、船だったのか、記憶はない。 今、機内で3歳くらいの子どもを見ると、あの長旅を思い、母の大変さを想像してしまう。
次に6歳の時に父と台湾に行った。帰国時、沖縄で給油した際に、窓から見えた米軍機の列だけは鮮明に覚えている。
その後、私が次に台湾を訪れたのは40年以上経った46歳頃、仕事でだった。アメリカのロボットメーカーでアジア担当の営業ディレクターをしており、それからは頻繁に台湾に通うようになった。その後、独立しても、アメリカロボット製品の日本、アジアをマーケット開拓で台湾にはよく行った。
リタイアした今、今回は約10年ぶりに、娘夫婦と、日本人の友人と共に、1週間の台湾旅行をした。今回の旅行では、娘と結婚したオランダ人の夫に、娘が受け継いできた二つの背景——私と亡くなった妻が生まれ育った日本、そして私の血統的な故郷である台湾——を知ってほしいと思っていた。娘は、父である私の台湾の系譜と、母方の上海・香港という中国文化圏の背景を併せ持っている。その娘がオランダ人と人生を共にすることになり、かつてオランダの植民地でもあった台湾を一緒に訪れることには、不思議な縁を感じずにはいられなかった。
台北・台中・台南で見た風景
今年からアーティストとして活動していることもあり、建築、美術館、街路樹、風景が自然と目に入る。台北、台中、台南を歩いていると、行く先々で歴史上の名前に出会う。蒋介石、孫文、鄭成功。

台北市立美術館、台中では国立台湾美術館、そして開館したばかりの台中市立美術館。台南では国立台湾文学館、林百貨店、延平郡王祠、安平古堡。安平の榕樹群は圧倒的だった。枝が垂れて地面に根を張り、一本の木が森のように広がっている。歴史と同じで、一本だと思っていたものが、実は無数の時間の重なりでできているように見えた。
こうした風景を歩いていると、台湾の歴史が、単なる年表ではなく、場所そのものに刻まれているように感じられた。特に国立台湾文学館は印象的だった。
台湾は、先史時代からオランダ統治、明鄭、清、日本統治、そして戦後へと、異なる支配が重なり合う歴史を生きてきた。国立台湾文学館は、日本統治の元台南州庁として建てられた建物である。第2次世界大戦中の米軍の空襲により中央の屋根部分が破壊され、その後、半世紀に渡り簡素な陸屋根に置き換えられていた。日本統治期の権力の建物が、今では台湾の言葉や記憶、物語を集める場所になっている。かつて取られてきた場所が、今は語り直す場所に変わっている。それは、静かだが台湾の歴史を内側から見直す重要な変化に思えた。この島がどれだけ多くの時代を背負わされてきたかを物語っているように感じた。

Black Water 展との出会い

台北市立美術館で「地平線上のささやき」と題された第14回台北ビエンナーレ2025で台湾の複層的な歴史(植民地支配、複数の支配者)に触れた後、その翌日に訪れた台中の国立台湾美術館で「Black Water 黒水」という「白と黒の歴史」をテーマにした展示に出会った。台湾の歴史を「黒水」という比喩で捉え、植民地支配、分断、抑圧、そして忘却を扱った展示だった。台湾の歴史における「黒」と「白」の両方を扱いながら、それらが分断され、白によって黒が覆い隠されてきた構造そのものを可視化する展示だった。
台湾が欧州勢力の植民地支配、日本統治、中国側の統治・争点を経てきた歴史は、ときに流入・流出・支配・抵抗の「波」に例えられている。これを「黒く濁った水」の比喩として提示しているのだ。 この展示は、後に年表として整理してみて、より深く理解できた。
ここでいう「黒」とは、植民地支配の影、帝国主義・資本主義の拡張、国家による暴力、白色テロ、消された記憶、記録されなかった声を指す。
一方で「白」は、正統性、近代化、法と秩序、国家建設、「安定」や「発展」として語られてきた歴史である。しかし同時に「白色テロ」という言葉が存在するように、白は中立や正しさを装いながら、黒を覆い隠してきた。
1947年の二・二八事件を発端に、国民党政権下で行われた長期の政治弾圧は、「反共」「秩序」「国家防衛」という白い名の下で実行された。その結果、社会に残されたのは恐怖と沈黙だった。それは、反政府的と疑われた市民の逮捕、投獄、拷問、処刑として現れた。対象は学生、教師、医師、文化人、そして一般市民だった。「何かをしたから捕まった」のではない。「疑われたから捕まった」。そうした恐怖が社会を覆い、推計で二万八千人が命を落としたとされている。
黒水の水が選ばれた理由は、台湾の歴史を語るとき、「水」は避けて通れないからである。台湾は島であり、外からの支配・移動・侵入・交易はすべて海=水を通じてやってきた。 人も、権力も、思想も水のように流れ込み、去っていった。水は形を持たない、境界を曖昧にする、しかし、確実に痕跡を残す。つまり、台湾史の主体が曖昧にされてきた性質そのものを表しているのだ。
私は台湾人として生まれたが、この歴史を学校で学んだ記憶がない。家でもほとんど語られなかった。なぜこれほど長く語られてこなかったのか。その疑問が、この文章を書くきっかけになった。
歴史を整理して見えてきたこと
台湾の歴史を辿ると、先住民社会、ヨーロッパ勢力(主にオランダ)、明の遺臣(鄭成功)、清、日本、戦後中華民国、そして民主化と、支配者が次々に入れ替わってきたことが分かる。台湾自身が選んだというより、外からの力によって位置づけられてきた歴史だ。
特に鄭成功の時代は、見落とされがちだが重要だ。台湾が初めて中国王朝の直接統治から外れ、島を拠点とする政権が存在した時代でもある。この時代は、中国史にとっても、現代の中台双方にとっても扱いづらい。しかし、台湾史として見れば、大きな分岐点だった。
台湾をめぐる多国間・同時代年表(横軸=年代)
国・勢力\年代 | ~1600 | 1624–1662 | 1662–1683 | 1683–1895 | 1895–1945 | 1945–1949 | 1949–1971 | 1971–72 | 1987–現在 |
台湾(島内) | 先住民社会 | オランダ統治 | 鄭氏政権(東寧王国) | 清の辺境統治 | 日本統治 | 戦後混乱 | 戒厳体制 | 国連排除 | 民主化 |
オランダ | 海洋進出 | フォルモサ支配 | 撤退・完全消滅 | ― | ― | ― | ― | ― | ― |
中国(大陸) | 明 | 明→清交替 | 清 vs 鄭(内戦継続) | 清 | 中華民国 | 内戦 | PRC | 国際承認 | 大国 |
日本 | ― | ― | ― | ― | 植民地支配 | 敗戦 | 冷戦下 | 断交 | 実務関係 |
この年表が示しているのは、台湾をめぐる支配の変遷だけではない。そこには、「中国とは何か」をめぐる二つの国家の主張が、戦後も並行して存在していたという現実がある。
当時、中国は毛沢東の中華人民共和国こそが中国であり、台湾を含めると主張していたが蒋介石の国民党の台湾は、中華民国こそが中国であると主張していた。
「二つの中国」は、中国にとっては“国家分裂の固定化”、台湾にとっては“自らの正統性の否定”、アメリカにとっては“対中戦略の障害”、国連にとっては“制度破壊”だった。よって、国連における「台湾だけの席」=国家分裂の容認と見なした。国連を失ったが、台湾としての歴史を得た。今日の「民主主義・台湾」はこの排除を内面化した結果として成立したのだ。
1971年、国連で中国代表権が中華人民共和国に移り、台湾(中華民国)は排除された。いわゆるニクソン・ショックである。この出来事は国家の問題であると同時に、私個人の体験でもあった。当時、私は台湾のパスポートを持っており、日本への出入国の際、初めて空港で別室に通された。国としての扱いが変わることが、個人の扱いに直結する瞬間だった。
国家が消えたわけではない。しかし、国家として扱えなくなった旅券を持つ人を、空港の入国管理事務所はどう扱えばよいのかわからず、結果として本人確認しただけだったのだろう。この出来事をきっかけに、両親は台湾の将来に不安を感じ、全財産を台湾から日本へ移した。アメリカに住んでいた私を除き、家族は日本国籍を取得することになる。
白と黒が教えられなかった
年表を見て、あらためて思う。これほど複雑で、多層的な歴史がありながら、なぜ私たちは学ばなかったのか。欠落していたのは歴史そのものではなく、語ることだったのではないか。
台湾の歴史は長い間、「中国の歴史」として教えられてきた。台湾は舞台装置であり、主体ではなかった。白色テロという「白」も、植民地支配という「黒」も、私たちは体系的に教えられてこなかった。
国内では戒厳体制もあり、インターネットもない時代である。そういう意味ではこういった支配者によって隠された黒歴史は私の娘のような海外の学者達の方がよく知っているのかも知れない。
ちなみに、鄭成功は、日本では文楽や歌舞伎の『国性爺合戦』の主人公として知られてきた。そこでは、明を再興しようとする英雄として、物語の中に描かれている。しかし、その物語の中心にあるのは台湾ではない。鄭成功は、日本の文化の中で「異国の英雄」として語り直され、台湾の歴史を分けた実在の人物としては、ほとんど意識されてこなかった。
一方、台湾では鄭成功は、オランダ統治を終わらせ、島の歴史を大きく転換させた現実の存在として、今も語られている。なお、鄭成功の母は日本人だった。(平戸出身の田川松 (中国名 翁氏))それは、日本が台湾史の外部にある存在ではなく、最初からその内側に関わっていたことを示している。それでも、日本で鄭成功が「台湾の歴史」として語られることはほとんどない。彼は、日本では物語の中の英雄として、台湾では歴史の当事者として、生き続けている。誰の物語として語られるかによって、同じ人物の意味は、これほどまでに変わってしまうのだ。
教育と世代の違い
今回、親戚や現地の人と話して強く感じたのは、世代による意識の差だった。戒厳令下で育った世代は、中国との関係を「語らないもの」として受け止めている。一方、民主化後に教育を受けた世代は、自分たちを明確に「台湾人」と認識している。
この違いは対立ではない。どの時代の教育を受け、どの台湾を生きてきたかの違いだ。
親戚に今回の旅行中、台湾の歴史について聞いてみた。すると多くがこう言った。「子供の頃、台湾の歴史は学校では習わなかった。学んだのは中国の歴史だった。」台湾で生まれ育った彼らが、自分たちの島の歴史を知らずに育ったという事実に、私は少なからず衝撃を受けた。
白色テロという「白」も、植民地支配という「黒」も、教えられてこなかった。
それは、歴史の欠落ではなく、語られなかったという事実そのものだったのではないか。台湾史が台湾のものとして教えられ始めたのは、ここ二十年ほどのことだという。歴史は存在していたが、語ることが許されなかっただけなのだ。
日本語表示という小さな違和感
日本ではよく、「台湾は親日だ」と語られる。災害の際に真っ先に支援をしてくれる、という話も何度も耳にしてきた。
だが、今回の旅で私が感じたのは、単純な「親しさ」ではなかった。街中では日本語表記をよく見かける一方で、美術館などの公式な場では日本語は慎重に扱われているように見えた。
日本は近代化をもたらした存在であると同時に、植民地支配者でもある。
その二つが重なる場所に言葉にしにくい距離感が残っているのかもしれない。
それは感情の問題ではなく、記憶の問題なのかもしれない。
現在の台・中・日関係(外から語られる台湾)
最近、日本でも台湾を支援する声をよく耳にする。台湾にも親日家が多いと聞く。当時、中国本土からやってきた人々が、台湾の水道や電気、鉄道などのインフラの整備状況に驚いたという話もよく聞く。日本統治後の国民党政権下の戒厳体制は虐殺などで酷かったと記録がある。それが故に親日家が多いと想像できる。
支援の言葉の一方で、それが台湾自身の意思というより、地政学的な立場から語られているように感じることもある。私はそれを良い悪いで判断したいわけではない。ただ、台湾はいつも「誰かの立場」から語られてきた島だった。
どの歴史からもわかるように勝者、支配者によってその国の歴史は書き換えられる。それぞれの立場としての正義があり、見方が違う。また、歴史を見るとデジャヴのように感じられる場面もあるのではないだろうか?
語られてきた台湾、語り直される台湾
台湾の歴史は、陣取り合戦の歴史だった。それは台湾が望んだからではなく、周囲がそう見てきた結果だった。しかし歴史を辿ると、台湾は単に「
取られてきた場所」ではなく、常に異なる文化、異なる言語、異なる人々が交差してきた場所でもあったことが分かる。

鄭成功は日本で生まれ、日本人の母を持ちながら、中国の歴史では「民族英雄」として語られる。その存在自体が、この島が一つの物語では語れないことを象徴している。

今回の旅で、台湾人、中国系、日本、オランダという複数の背景を持つ家族が、同じ土地を歩いたことも、偶然ではないように思えた。もしこれから台湾が語られるなら、それは「誰かの立場」からではなく、こうした重なり合った人生や記憶の延長として語られてほしい。
色を塗り直すことよりも、初めてその色が混ざり合っていたことに気づくことから、台湾の未来は始まるのかもしれない。
今は、そう思っている。
12/24/2025
帰路の機内にて
— Eimei
(台湾にルーツを持つ一人の旅人として)


